殿様と雲助
「楽あれば苦あり」ということわざは、楽な時もあれば苦しい時もあるという、「時間」軸上の苦楽の意味として使われます。しかし、古いいろはかるたの絵札には、雲助が旦那の乗ったカゴを担いでいる絵が描かれているものがあります。なるほど「どこかで楽をしている人がいればどこかで苦労している人がいる」という、「空間」上の苦楽として解釈することも可能です。「遠き慮(おもんぱかり)なければ、必ず近き憂いあり」という論語の言葉も、遠い将来のことまでよく考えて行動しないと、必ず近い将来困ることが起こる、という「時間の遠近」で使われますが、「遠き慮り」を遠い世間のことまで考えた広い視野、「近き憂い」を身近なトラブルと言う風に「空間の遠近」で解釈しても、「視野が狭いと些細なことが心配になる」というような、もっともな教訓として捉えることができると思います。
人生という空間
時間と空間というのは、グラフの縦軸と横軸のように切っても切れない関係にあるように思います。森羅万象はすべて時間と空間の中にあります。私たちは「人生という時間」と共に「人生という空間」も生きているのです。慌ただしい日常の中、現代人は時間を絶えず意識しています。通勤中、仕事中、食事中、睡眠時間、見たい番組の時間、休日の外出…。時計を見なくても、あちこちから聞こえてくる音楽や機械音が発するリズムが時を刻みます。
しかし、時計もなく、テレビやラジオから音楽が流れてくることも無かった時代、人々は時間とか空間という概念をはっきりと分けて意識していたでしょうか。
太陽や月の動き、雨や風、せせらぎや波の音、人の声、鳥や虫の鳴き声…。
あけぼの、黄昏時、夜のとばり…。
すっかり日が暮れるまで夢中になって遊んだ子供の頃のように、むしろ時間と空間が一体となった「間」や「気配」、「雰囲気」を敏感に感じ取っていたのではないかと思います。
「時」は金なり 「空間」は…
さて、現代の日常生活において、時間だけでなく、もう少し「自分が今どんな空間に身を置いているか」ということも積極的に意識してみたらどうなるでしょうか。たとえば通勤時間。満員電車や渋滞の車内で情報収集や語学学習をするのは、時間を有効に使うという点では良いアイデアですが、空間的には寂しい気がします。一方、人や自然を眺め、季節を五感で感じながら自転車で通勤する場合は、「通勤空間」が充実している感じがします。
たとえば休日。私の場合、今日1日という「時間」を有意義に使おうと思うと、家の中でだらだら過ごすよりは、どこかへ出かけて、「今日も何かしたぞ」という充実感を得ようと考えます。しかし、今日という「空間」を充実させようと意識したとき、真っ先に思いつくのは身の周りを整えることです。
ほとんど丸一日かけてようやく手にする至福のとき…。
「生きている間に、あとどれだけこの空間に浸っていられるだろうか…」。
「時は金なり 空間は幸福なり」。
いわば「空間の嗜(たしな)み」といった趣きです。
「慌ただしく忙しい毎日から脱出したい…」。もしかしたら「時間」よりも「空間」に、ヒントがあるかもしれませんね。
中島桂一